昭和48年11月20日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
この六十八節の信心が身について来た時に、本当の信者らしい信者、信者らしいと言うよりも、信者の中の信者と言う風に感じますね。お互い一つ男の中の男と言う様な、表現を致しますように、信者の中の信者と言われる様なおかげを頂きたいですね。そういう例えば、信者の中の信者と言われる様な、信心と言う様なものがですどう言う所から現れるか頂けるかおかげが頂けるか、お徳が受けられるかと言う事ですけれども、これは始めの所、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてもならぬ。
その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとおっしゃる。金光様の信心はどうしても、こういうね、まあ、いうならば、日参り的な、朝参り的な信心が身についてしまわなければ、本当の信者の中の信者とは言えないと思うです。朝参りの味わいを知らないなんて、金光様の信心者の、いわゆる信者の中の信者とは言えませんね。それから中段の、心に真がなければ、神に虚言を言うも同然じゃというところがあります。
ここはいわゆる、真実の生き方、いうなら実意丁寧の生き方とでも申しましょうか そこから信心さして頂なければ、匂うてこない信心の薫りというものが感じられます。只ここんところをですね、虚言の生き方をしてはいけません。どこまでもいわゆる、朝参り的な信心、一生懸命御教えを頂いて、生活の全面にそって実意な、例えば、商売人であるなら、もうお客さんに喜んでもらいさえすればよいという生き方、あのね、教祖様の人が助かる事さえ出来ればというのは、商売でもそうである。
商売人であるならば、もうお客さんが喜んで下さりさえすればという事だと思うんです。これは商売人だけの事ではありません。一事が万事にそいった心情というものがね銘々の職場とか立場に於いて、そういうものがにじみ出てくる。そういう一つの思い込み。私のところはお客さまが喜んで下されば良いんだと、という生き方だと言う事 いわゆるお客さん本位の商売だと。
自分が思い込み人に思い込んで貰えれる、そこが信用なんです。あちらは何か違うと思いよったら、やっぱり金光様の信心なさりよるげなからと言う事になるのじゃないでしょうか。最後にね小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声を上げたり、節をつけたりせんでも人に物をいう通りに拝め。ここに至った時に本当の信心の薫りが致します。いわゆる信心臭がない。信心臭さがあい。淡々として、淡々としておる信心。私は○○教の信者だと言うて、それを何か非常に誇示する人がありますね。
もう人が見よろうが見よるまいが、そんなのは問題じゃない。まあそれは信念的な一つの動きとも見えますけれども、本当は金光教の信心はこういうね、もう人に物言う通りという然も、それがです、嘘のない真実の生き方、その内容としてはです、もう、それこそ、雨も風も厭わんというほどしの内容があってですね、内容じゃ燃えてくるわけです。そして真実の生き方が出来る。
そして形の上には、それこそサラサラとしておる。特別に私は金光様の信者でございといわんばかりのふうな生き方はない。只、あちらは一家中違うと思うとったら、一家中あげて金光様の信心しよんなさる 素晴らしい教えじゃろう。ああいう家庭、ああいう人となりといったようなものがいうならにじみ出てくるくるようなもの。私は六十八節を、そういうふうに三つに切って考えさせて頂いた。まあお酒でいうならば、甘、辛、ピン、とでも言います。
甘味それから、辛味それからピンとくるところの、いわゆるにがみというところですね、といったものが丁度、足ろうたら良い酒だと、又は香、色、味、とこの三拍子揃わなければならんというふうに言われます。だから金光様の御信心をね、今私が申します、その三拍子が揃わなければ、本当の信者、いわゆる本当の信者というのは何ですけれども、信者の中の信者と。例えば認めて頂くようなおかげは頂かれんと思う。どうでしょうか。お互いこの三拍子揃うているでしょう。
だからこうして、朝参りをしておられる。雨が降るから、風が吹くからは出来ているような感じが致します。ならその中にあるところの、そこで信心の稽古を日々させて頂いて、御教えを頂くのでございますから、いわゆる神に嘘を言うも同然じゃという生き方をね、そういう生き方はお前、金光様の信心とはいえんじゃないかと言った様な事はないでしょうが。まず、そこが出来なければ最後のです、サラサラとしたと言った様な、それこそ薫りが漂うような事にはなってこないと思うです。
最近、久富正義さんと、高橋さんの例をいつも話すんですけども、高橋さんはこのはじめのところが見事に出来ているわけですね。雨が降りよるから、風が吹くからと言ったような事がない。もうそれこそ、一途にここんところを貫いておいでられる。正義さんにこの信心をさせたら素晴らしかろうと感じますね。正義さんは何とはなしに、私は金光様の信心でございますという事はないです。
何とはなしに信心のない信心のない方達が聞いても、本当に久富建設の大将はなかなか人物が出来ちゃる。話に聞いたら合楽に参りよんなさるげなと言う様な話をちらちらと聞きます。又、同じ信者同志がです、それを聞いてから、今日は本当に嬉しかったというて、その事をその噂を聞いた事をです、ここでお届けされる方を何人も私はお届けさして頂きました。はぁあれは金光様の信心をしよるばってん、とてももうろくな奴じゃなかといわれる人が多いんですよ。
それは一つの妬みとかそういうものもありましょうがね、いうなら金光様の信心をしよって、後ろ指をここれる様な事であってはいけないですよね。どうでも一つ私はこの六十八節から信心者としての、いうならばそれも信心者でなくて、真の信心者の中の真の信心者と言われる程しのおかげを頂いた時こそが、私はお徳を受ける時ではないかと思うです。それではこの六十八節の始めの所の、いうならねそれこそ雨が降るから、風をも厭わん一途な、神様への熱情というものが湧いておらねば出来ませんよね。
それが日常のいうならば、人が助かる事さえ出来さえすればよいとか、お客さんが喜んで下さればよいという、いうなら商売人でいうなら、お客さん本位の信心が御教えに基づいて出来にようになる。そしていうならば、夜の有難さ朝の清々しさ、昼の忙しさそして夜の有難さ、この夜の有難さと言う所が、有難いという心の中にいっぱいある時には、もうその周囲雰囲気をです、もう何ともなしに有難いものにしてしまうです。
サラサラッとしたもの、どうぞ一つ皆さん、折角信心さして頂くのでございますからね、信者の中の信者と言われるようなおかげを頂いて、成程、ああいう信心すればああいうおかげもお徳も受けられるんだという、いわば人の手本になるようなおかげ信心を頂きたいと思う。人の手本になるような信心をこの六十八節の中から今日は三つのわけて聞いて頂いたんですけれども、その一つ一つが身について行くおかげを頂きたいものですね。
どうぞ。